東洋時計上尾工場争議[労]1946.10.24
東洋時計上尾工場争議[労]1946.10.24
発端は産業復興運動のあり方をめぐり,産別会議路線を支持する左派が10月24日の臨時大会で右派執行部を突き上げ労資協調路線反対・即時賃上げを決議したことにあった.この結果上尾工場従組の指導権は左派の手に帰し,右派は奪回をめざして上部機関の東洋時計労組連合会(総同盟加盟)とはかり再建同志会を結成した.両者の対立は11月15日従組側が再建同志会の本拠にデモをかけてその脱退を迫った上寺事件を機に一挙に高まり,12月13日には再建同志会が生産管理中の工場を襲撃し死者を出す流血の惨事となった.争議は翌1947年4月22日埼玉地労委の調停で終結したが,組合内部の対立・抗争として展開された点で,またその間従組側の生産管理に対し違法とする検事総長談話が出されるなど,特異な争議であった.〔参〕東京大学社会科学研究所《戦後初期労働争議調査》13集,1971.《全国金属30年史》1977.
大原クロニカは、法政大学大原社会問題研究所編『新版社会・労働運動大年表』(労働旬報社、1995年)に基づいたウェブ歴史事典です。日本の社会運動・労働運動を中心に解説しています。