食糧メーデー[社]1946.5.19
食糧メーデー[社]1946.5.19
すでに5月1日のメーデーにおいて,各区市民食糧管理委員50人が農林省に食糧問題で情報を公開せよと要求するなどの動きを開始していた.そのあと東京の各地で,あるいは横浜で,食糧を求める地域住民の直接行動が展開されていた.5月12日には,都内の世田谷で〈米よこせ区民大会〉が開かれ,代表者が宮城へ押しかけている.5月19日の飯米獲得人民大会(食糧メーデー)は,それらの動きの頂点となった.参加者は約25万とされている.組閣工作中の第1次吉田内閣に強烈な圧力となった.首相官邸,警視庁,検事局へ決議文が届けられたが,宮内省へは天皇宛の上奏文が提出された.内容は,天皇に対する民主人民政府樹立の要求と食糧の人民管理の要請であった.5月24日,天皇は,終戦の放送以来,2度目の〈玉音放送〉を行い,食糧危機を〈家族国家のうるはしい伝統〉で突破するよう,国民に訴えた.〔参〕《読売政治年鑑・1947年版》.
大原クロニカは、法政大学大原社会問題研究所編『新版社会・労働運動大年表』(労働旬報社、1995年)に基づいたウェブ歴史事典です。日本の社会運動・労働運動を中心に解説しています。