田中正造の直訴[社]1901.12.10
田中正造の直訴[社]1901.12.10
川俣事件の公判闘争を軸に足尾銅山鉱毒反対運動の再組織化に奔走していた田中は,1901年10月衆議院議員を辞し,世論の喚起による鉱毒問題の評決をねらって,この日,第16回帝国議会の開院式に向かう天皇に直訴を行った.直訴は,毎日新聞の石川半山の示唆にもとづくものであり,〈草莽の微臣〉に始まる直訴状は幸徳秋水の筆になるものであった.世論の沸騰に驚いた政府は,鉱毒問題の最終的処分を行うべく第2次鉱毒調査会を設置し,日露戦争の過程で鉱毒問題を治水問題へとすりかえ,谷中村の廃村・遊水池化をはかった.これに対し田中は谷中村に移り住み反対運動を指導,’07年の強制破壊後も16戸の残留民とともに,’13年9月4日,71歳で死去するまで闘いを続けた.〔参〕由井正臣《田中正造》1984.⇒1907[社]6.29.
大原クロニカは、法政大学大原社会問題研究所編『新版社会・労働運動大年表』(労働旬報社、1995年)に基づいたウェブ歴史事典です。日本の社会運動・労働運動を中心に解説しています。