大原社研所蔵のヨーロッパ関係図書資料について 良知 力
大原社会問題研究所が一九一九年大阪に設立されて以来、経済学の理論的領域においてのみならず、日本の労働運動や農民運動の歴史においても、開拓的に研究をおしすすめたことはよく知られている。同時に本研究所には、それらの研究に関連した内外の図書資料が系統的に蒐集されていた。一時期には、「大原社会問題研究所の文庫は、社会問題、それから精選されている点ではおそらく経済学に関しても、日本はもちろん世界的にもめったにひけをとらない立派なものになっていた。」(久留間鮫造「大原社会問題研究所とその蔵書」八ページ)しかし、一九三〇年代の日本の政治情勢の急速な悪化とともに、研究所そのものの存廃が問題となり、結局一九三七年研究所は東京に移転しなければならなかった。そしてその際、主として経済学に関する約八万冊の書物を大阪府に譲渡した。(これは現在大阪府立図書館天王寺分館にある。)しかも研究所は一九四五年五月の空襲によって、数万冊の書物を建物とともに灰とした。その際、一部の貴重な内外の図書資料は土蔵中で災をまぬがれたが、ヨーロッパ関係文献については、その後も現在にいたるまで完全に整理するだけの余裕もなく放置されてきた。しかし、たまたまわたくしは同所の書物を仮整理し、同時にカタログを作製する機会をあたえられたため、蔵書の現状をわたくしなりにみとおすことができた。このなかには貴重な第一次資料もふくまれているにもかかわらず、いまのところ自由にそれを専門研究者に開放するだけの設備がない。したがって、それを十分に利用しうる将来のために、いまその内容を部分的に紹介しておくことも、あながちむだではないであろう。なお、これらの文献を調査し、利用するにあたって、大原社研図書主任永田利雄氏から受けたご助力に対してこの機会に感謝する。
今回わたくしが調査したのは、主として一八七〇年代までのヨーロッパ関係の図書資料についてであった。それらは現所長の久留間鮫造教授と故櫛田民蔵氏が直接ヨーロッパにおいて蒐集されたものを主たる内容としている。当初の蒐集方針は狭義の経済学史のみに限定されず、ひろく社会運動史全般におよんでいたようである。たとえば、婦人解放運動の先駆的役割のなかでたゝたかいぬいたメアリー・ウルストンクラフトの二冊の書物――そのうちの一冊は「婦人の権利の擁護」の第三版(一七九六年)――などは、その一例である。しかし他面、書物が厳選されていたということを示す例に原版のプレゼンテイション・コピイがある。オーエン父子の書物、パンフレット、定期刊行物についていえば、それらは著名な労働時間証券(National equitable labour exchange, etc. The value of ten hours. London 1833.)や共産村樹立のための寄附金の募集趣意書等までふくめて、包括的に集められているが、そのうちプレゼンテイション・コピイとしては、ロバート・オーエンに二冊、ロバート・デール・オーエンに一冊ある。その一つにはきわめて読みにくい字でTo John Walker Esq./ with the great regard / of his old friend / Robert Owen / Sevenoaks Park / Sevenoaks 12 November 1857.としるされてある。また久留間教授は、ロンドンでオーエン文献を購入された際、「ホリオーク氏あたりがかつて持っていたものではないか」と推測されているが、事実ロバート・オーエンの一書には John G.I. Holyoake / 20 Oct.1841.という署名がみられる。さらにプレゼンテイション・コピイをあげると、マルサスの『サミュエル・ホイットブレッドへの手紙』(一八〇七年)には、Rev.Dr. Henley / with Mr. Malthus’ Compliments,としるされているし、またクロポトキンの『ある反乱者の誓い』には、ウィリアム・モリスにあてた献呈文 To William Morris / with best sympathies / from P. Kropotkin / June 6,1888. がみられる。前述のウルストンクラフトの『婦人の権利の擁護』のとびらには、To George Sand / from / Eliza Ashurst / Oct.8th 1817. とあるが、これが婦人の自立のためたたかったかのジョルジュ・サンドであればおもしろいが、一八一七年といえば、かの女はまだ一三歳であり、はたしてどうなのであろうか。しかし、プレゼンテイション・コピイの圧巻はやはりルードヴィヒ・クーゲルマンの文庫であろう。かれの文庫には本をかたどった小さなエックス・リーブリスがはってあるが、そのなかには、マルクスがクーゲルマンにおくった資本論初版がふくまれている。そこにはマルクスの特徴的な文字で Seinem Freund Dr.Kugelmann / Hannover 17 Sept.1869 Karl Marx.としるされてある。また、ブランキストとしてパリ・コンミューンに参加し、その敗北後ロンドンでマルクスと交友関係をもったエデュアール・マリー・ヴァイヤーンに対するマルクスとエンゲルスの献呈の辞もみられる。すなわち、『ブルメール一八日』第二版(一八六九年)には、à son ami M.Vaillant / Londres. 2 Decembre, 1871. Karl Marx. とあり、また『新ライン新聞』の別刷である『フランスにおける階級闘争』には、序文を書いたエンゲルスの手によって Au citoyen Vaillant / Londres 12/4/95 F. Engels としるされている。
大原社研の蔵書を整理してわれわれが気づく特徴の一つは、マルクスおよびエンゲルスの著作活動に直接に関する資料がかなり包括的に収集されていることである。一つだけ例をあげよう。『一九世紀の共産主義的徒党』(Die Communisten-Verschwörung des 19. Jahrhunderts. Im amtlichen Auftrage zur Benutzung der Polizei-Behörden etc. Berlin 1853-54) という書物がある。それについて、エンゲルスは『ケルン共産党裁判のばくろ』の序文のなかで「今世紀のもっともあさましい警察ルンペンの二人によってでっちあげられ、故意の偽造にみちているこの駄作は、当時のことを述べたすべての非共産主義的文書にとって、いまなお最新の資料として利用されている」と述べている。(『共産主義者同盟の歴史』)このように、単行書蒐集の範囲は、経済学史の枠内にとどまらず、ひろく社会思想史にもおよんでいる。そのなかから、いくつかの古版をひろいだしてみよう。まずユトーピア思想の古典としては、ジェムス・ハリントンの『オセアーナ』(一六五六年)『ガリレオ弁護論』(一六二二年)をもふくむトマソ・カンパネラのラテン語版諸著、またフランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』をふくむ哲学および政治論集ラテン語版(一六三八年)があげられねばならない。またマルティン・ルターの高利を論じた書(一五四〇年)、「通例レヴェラーズと呼ばれているものたち」の政治および宗教に関する原理を述べたパンフレット(一六五九年)、ジョン・リルバーンが一六四九年ロンドン塔のなかから書いた「イングランド人民の法的および基本的諸自由」についての書簡がある。ジェラルト・ウインスタンリーの書物もかつて所蔵されていたそうであるが、いまは紛失してしまった。経済学史また統計学史の著名な古典としては、「世界におそらく二部しかないだろう」といわれているヨハン・ペーター・ズユースミルヒの『神の秩序』初版(一八四一年)および第二版(一八四二年)、ジョン・グラントの『死亡表に関する自然的および政治的諸考察』第四刷(一六六五年)および第五版(一六七六年)、ウイリアム・ペティの政治算術に関するエッセイ集(一六八七年版および一六九九年版)がある。さらにアダム・スミスの『諸国民の富』初版(一七七六年)ベルナード・ド・マンドヴィルの『蜂の寓話』第三版(一七二四年)および第六版(一七三二年)、同書第二部の第二版(一七三三年)、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』初版(一七六二年)、コンドルセの遺稿として三〇〇〇部刊行されたといわれる『人間精神の進歩の歴史的展望の素描』(一七九五年)等も一応はあげられるべきであろう。なお大原社研の蔵書のなかには、ウイルヘルム・ハスバッハ教授の文庫がかなりふくまれており、教授自身の著作には、きわめで詳細なマージナル・ノートが書きこまれてている。
現在保存されている資料のうち相対的に充実しているものは十八世紀末から十九世紀前半にかけての、とりわけウイリアム・コベットからチャーチスト運動にかけてのイギリス社会運動史に関するものである。われわれは第一にエドモンド・バークのフランス革命批判に答えた『人間の諸権利』(一七九一年)をはじめとするトマス・ペインの諸著をあげなければならない。その際われわれの興味は、とりわけ次の二著に向けられる。すなわちペインの A letter to the Hon Thomas Erskine on the Prosecution of Thomas Williams for publishing the Age of Reason.n.d. および The only genuine edition of the speeches of the Hon T. Erskine, and S. Kyd. Esq. on the trial of T. Williams, for publishing Thomas Paine’s Age of Reason.n.d. である。それは十八世紀啓蒙思想の一つの典型がその自立性のゆえに耐えねばならなかった苦難の記念碑である。さらにトマス・アースキンについては、ジョーサイア・タッカーの一著に、八ページにわたるタッカーの伝記とアースキン自身の署名とが肉筆で書きこまれてあるのがみいだされる。またペインとともにフランス革命Rと擁護した自然科学者ジョーゼフ・プリーストリーの著書、とりわけ『統一の第一原理と政治的・市民的および宗教的自由に関するエッセイ』(一七七一年)もまた十八世紀著作史のなかで特異な存在といえよう。ウイリアム・コベットの数多くのパンフレットやチャーチズム関係の諸資料をここで一々あげることはできないが、いくつかのものをとりだしてみよう。第一に一八三〇年二月十八日のバーミンガム政治委員会の宣言が附された Bill for parliamentary reform as proposed by the Marquess of Blandford in the House of Commons.1831.がある。本書には Thomas Atwood Esq. という署名が附されている。いうまでもなく、このアトウッドはバーミンガム出身の銀行家であり、「バーミンガム政治同盟」の最高指導者であった。またウイリアム・ロベットやヘンリー・ヘザーリングトンとともにロンドンの運動でもっとも活動的な地位をしめていたジェームズ・ワトソンの裁判記録 Fairburn’s edition of the Whole proceedings on the trial of James Watson. がある。ワトソン自身のメモアールによれば、「わたくしが政治や神学をはじめて知ったのは一八一八年秋であった」というのだが、本書の刊行年は一八一七年としるされている。あるいは、Chartist songs and fugitive pieces. というパンフレットがある。著者のアーネスト・ジョーンズは『ノーザン・スター』の編集者として一般に知られているけれども、かれは同時に著名な弁論家であり、詩人であった。一八三二年の選挙法改正運動の段階には、ウイリアム・ベンボーの Grand national holiday and congress of the productive classes, etc. 1832. がある。ベンボーは印刷業者、刊行者、喫茶店主として、少くとも二度の獄中体験をとおして同時代の労働者に広汎な影響をおよぼした。本書はゼネストについての最初の理論的パンフレットとして知られている。チャーチスト運動の時期については、定期刊行物もまたかなり豊富に所蔵されている。この時期の運動に関連してもっとも著名なものは、Cobbett’s Political Register(1802-35) Poor Man’s Guardian(1831-35) Northern Star(1837-52) であろう。まえの二誌は不完全ながら所蔵されているが、『ノーザン・スター』のみは当初から購入されていない。『プァー・マンズ・ガーディアン』の刊行者はヘンリー・ヘザーリングトンであるが、かれがもっとも民衆的な出版業者としての特異な存在を示したものに The Halfpenny Magazine of Entertainment and Knowledge. がある。当時の革命的サンディカリズムの潮流とオーエン主義の Co-operation の協調的理念との内部対立は、オーエン主義の数多くの刊行物を通しても示されているのであるが、この小文ではでははぶかねばならない。ここでは一八一〇年代の議会改革の運動の頂点を示す特異な文献として Peterloo massacre containing a faithful narrative of the events etc. Edited by an observer. No.1~13. 2ed. Manchester 1819.をあげるにとどめる。本書は一八一九年八月マンチェスターで十一人の死者と四百人以上の負傷者をだした、いわゆるピータールーの虐殺についての報告であり、そこで主役を演じたのは、著名な煽動家であるとともに、To the radical reformers, male and female, of England, Ireland and Scotland. を刊行したヘンリー・ハントであった。最後に、大原社研に比較的まとまって保蔵されているものとして、オーエンの「公式」機関紙であった The Crisis 、おなじくオーエン主義の The New Moral World 、フーリエの La Phalange ピエール・ルルーの Revue Sociale ルイ・ブランの Le Nouveau Monde などをあげておくべきであろう。
現在保蔵されでいるドイツ語の古い定期刊行物としては、ヘーゲル左派を中心とした三月前の諸文献が重要である。そこでの編集活動の中心はいうまでもなくアーノルト・ルーゲであり、かれが編集した主要な雑誌に、Aktenstücke zur Censur, Philosophie und Publicistik. Anekdota zur neuesten deutschen Philosophie und Publicistik. Hallische Jahrbücher(一八四一年七月号からは Deutsche Jahrbücher と改称)がある。さらにルーゲの精神的影響のもとで「共和主義的」煽動をおこなっていたカール・ハインツェンの Die Opposition ヘンリー・ビュットマンの Deutsches Bürgerbuch. Prometheus および Rheinische Jahrbücher ゲオルク・ヘルヴェークの Einundzwanzig Bogen aus der Schweiz モーゼス・ヘスの Gesellschaftsspiegelフォイエルバッハ主義者のカール・グリューンの Neue Anekdota 等の諸誌は、それぞれの特色はもちながら、いずれもヘーゲル左派の急進的潮流のなかに位置づけることができよう。ただオットー・リュニングの Dies Buch gehört dem Volke はドイツ哲学の影響よりも、むしろルイ・ブランの系譜に属する。そこでは何よりも、生産協同組合への労働者の団結と国ニ的社会改良のなかに救済策が求められる。最後にロバート・ブルムが編集した Vorwärts Volks-Taschenbuch für das Jahr 1846. をあげておこう。いうまでもなく、ブルムはフランクフルト国民議会の民主主義的左派の指導者であり、ウィーンの十月蜂起の結果銃殺された人である。したがってこの雑誌は周知の『フォアヴェルツ!』誌とはことなるものであり、またヘーゲル左派の系譜につながる上記の諸雑誌ともことなった政治的地点に位置づけでよいであろう。
右にあげたもののほかに、大原社研に所蔵されている源泉史料の一つとして、一八四八-四九年のドイツ革命における約一三〇部のビラおよびパンフレットが加えられねばならない。それらは大部分がベルリンにおいて刊行されたものであり、理解しにくい方言によってつづられている。「大きなあごひげをはやした時事記者アウユスト・ブッデルマイヤー」とか「市民軍の一等兵ウーロ・ボーンハンメル」等の署名をもつ檄文、ザクセン、プラーハ、ウィーン、ドレスデンなど各地の状勢報告、ベルリソ警視総監の公示文、各大臣(革命時のプロイセン首相ルドルフ・フォン・アウエルスヴァルト、蔵相ダヴィット・ハンゼマン、その後短期間の首相であったエルンスト・フォン・プユール、ブユール内閣の内相フランツ・アウグスト・アイヒマン等)に対する告発文、諷刺文などがその内容である。これらのもののうち一部分はすでに史料集(たとえばカール・オーバーマンの研究)などで公表されているけれども、しかしおそらくここには、未利用の史料がかなり残されていることであろう。
さらにわれわれは、第一次資料としてもっとも貴重な手稿コレクションをあげなければならない。
それらは二、三の草稿をのぞけば、書簡が主たる内容であり、個別的に購入されたと思われる一部分をのぞいて、もともと二つのコレクションからなりたっているようである。そこにはV・R・ミラボーの書簡などもふくまれでいるけれども、そのほとんどが社会主義者の書簡である。たとえば、ルイ・ブラン、ジェローム・アドルフ・ブランキ、ヴィクトル・コンシデラン、アーノルト・ルーゲ、バウアー兄弟、カール・グリューン、カール・ハインツェン、ロバート・ブルム、エレアノル・マルクス、アウグスト・ベーベル、リープクネヒト父子、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキン、ヨハネス・モスト、ピエール・クロポトキン等等。これらの書簡は宛先不明のものが多いが、そのうちいくつかのものはドイツ労働組合同盟の創設者マックス・ヒルシュあてのものではないかと推定される。以上断片的な書簡が多いなかで、ウイルヘルム・リープクネヒトの普通選挙権に関する草稿は中断してはいるが、かなりの程度まとまったものであり(一九ページ)、後日機会をあらためて発表されねばならないであろう。なお、これらの書簡コレクションのなかでも、内容的にとりわけ興味あるものに一八四三年の逮捕時におけるウイルヘルム・ワイトリングの書簡があるが、それらはすでに『経済志林』第二十七巻三号の拙稿のなかで発表されている。またフェルディナント・ラッサールの書簡は、『経済研究』第十二巻一号に発表された。ここでは、アレキサンドル・ゲルツェンの書簡をドイツ語の原文どおりにあげておこう。そこでかれは、一八五八年ロンドンで創刊しロシヤに密輸入されたといわれる雑誌『鐘』(Коло кол)についてふれている。このような書簡をここで発表することは、必ずしも適切ではないかも知れない。しかし大原社研に死蔵されているコレクションが専門家の手によって後日あらためて校証され、思想史研究をおしすすめる契機となることを、わたくしは望んでいる。
27 October 1857. Putney (?)
Liber Herr Corvin,
Ich bin recht herzlich dankbar für die Artikel ich habe früher gewusst, dessenungeachtet es machte mir eine Freude zu sehen dass Sie an mich dachten.
Jetzt ist schon ein Befehl v. Minister Westfahlen in Berlin ― gegen unsere arme “Glocke”― die wird jetzt mehr gekauft. Nachdem ich Sie gesehen habe,haben wir einen russischen Spionen gefunden acourirt und publicirt. Es ist ein Ostreichischer Pole.
Ihr ergebenster
A. Herzen.
愛するコルヴィン氏ヘ
一八五七年十月二十七日
論文をいただき心から感謝しております。まえからわたくしは存じてはおりましたけれども、あなたがわたくしのことを覚えていてくださったことがわかって、うれしく思いました。いまベルリンでは、わたくしたちのあわれな『鐘』を圧迫するヴェストファーレン大臣の命令がくだされました。それはいま売行きがのびているのですが。わたくしがあなたにお会いしたあとで、わたくしたちは、ロシアのスパイをみつけ、追いかけて、すっぱぬいてやりました。それはオーストリア系のポーランド人です。 敬具
A.ヘルツェン
大原社研にはさらに故パウル・エルツバッハー教授が収集したアナーキズム文庫がある。この文庫は単に狭義のアナーキズム文献を内容とするだけではなく、アナーキズム前史、批判史、運動史を全系譜的に包括する。それはそれ自体アナーキズムの文献史というべきである。しかし、これについては、すでに戦前の『大原社会問題研究所雑誌』にカタログが刊行されているので、内容的な紹介ははぶく。この文庫については、現在わたくしが整理をすすめているのであるが、その現状は旧カタログに所収されているものと内容的にかなりの変化を示している。紛失しているものもかなりあるし、その反面カタログには未収のものもいくつかある。
そこには未利用の第一次資料が多数ふくまれでいるので、将来機会をあらためて、その全貌を紹介しなければならない。
以上、わたくしは大原社研に所蔵されたヨーロッパ関係文献の現状を羅列的に、しかも部分的に述べた。将来整理が完成されたのちに、個々の専門家の手によって、未発掘の文献があらたな校証の照明にさらされることを期待しながら。
(一九六〇年十月二十二日)
(追記)久留間教授のご教示にしたがって、二、三の重要文献を追加しておこう。まず、Some thoughts on the interest of money in general and paticularly in the public funds etc. Lond.n.d. 〔1739 or 40〕という表題をもった匿名パンフレットは、マルクスが資本論の商品価値の分析のなかで、「A・スミスの匿名の先行者」として高く評価した書である。
さらに、プレゼンテイション・コピイをふくむジョン・グレイの諸著をはじめ、ジョン・フランシス・ブレイ、ウイリアム・オギルヴィ、チャールズ・ホール等、リカード派社会主義者の諸著も稀覯本として挙げることが必要であろう。
〔「一橋論叢」第四五巻第二号 一九六一年二月より転載〕
更新日:2014年12月22日