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林玲子・柳田節子監修 アジア女性史国際シンポジウム実行委員会編 『アジア女性史--比較史の試み』

評者:松尾 純子

 本書は1996年3月16・17日の両日に東京で開かれたアジア女性史国際シンポジウムの成果として刊行された。1970年代後半以降「女性たちのネットワークが世界各地で広がりをみせ」,「アジア諸国における女性史研究の進展」が80年代以降顕著になったことが,「アジア諸地域の女性の生活と歴史に関する比較史的考察」を可能にした。こうした状況を背景に,「アジア女性史の『多様性と共通性をさぐる』こと」,研究者の相互交流をはかること,「アジア女性の現代的課題に対しても共通の認識を持つことを意図して」,5テーマ1特別セッションが企画され,当日の熱のこもった報告・議論の展開のなかで生まれた貴重な成果を共有すべく,本書は編集されたという(刊行にあたって)。
 構成は大きく2部に分かれ,第1部は6分科会34人の報告および各分科会オルガナイザーのシンポジウム終了後の「小括」からなり,第2部はシンポジウム準備過程での成果ともいえる日本(古代,中世,近世,近・現代)・中国(大陸・台湾)・朝鮮・インド・ベトナム各国の女性史研究の現状と課題の概観,およびアメリカにおける中国女性史研究の現状の紹介からなる(5頁)。34人の報告者名と課題だけを次に紹介しておこう。

  • 第1章 工業化と女性   リンダ・グローブ「中国における女性労働者三世代の軌跡」/重冨スパポン「タイの女性労働者史 1960~80年」/東條由紀彦「日本近代女性雇用労働の起点-『キカイ』と『年季者』の遭遇」/チャン・ハン・ザン「工業化とベトナム女性のライフスタイルの変容-都市と農村の比較」/板垣邦子「農村生活の変容:女性を中心に-1920~1954年」/スーザン・オルジタム「変わる女性の生活:マレーシア半島の都市と農村-インド系女性を中心に」
  • 第2章 政治と女性   譚深「単位体制と中国女性」/コラソン・B.ラムーグ「フィリピンにおける女性の政治参加と経済的参加」/辻村みよ子「日本の戦後政治と女性」/朴容玉「韓国女性の抗日民族運動推進とその特性」/押川文子「ナショナリズムと女性-両大戦間期のインド」/広瀬玲子「女性にとって15年戦争とは何であったのか-『満州』認識を中心に」
  • 第3章 思想・宗教   杜芳琴「元代における理学の女性に対する影響」/菅野則子「江戸時代における『儒教』の日本的展開/文玉J「現代韓国女性の生活における儒教の影響」/アパルナ・バス「インド女性の日常生活においてヒンドゥー教が果たす役割」/川並宏子「ビルマ仏教における女性-出家と世俗」/西口順子「中世の尼と在家尼」
  • 第4章 家父長制と女性   秦玲子「宋代の皇后制からみた中国家父長制-および,伝統のファジーさと伝統を使う個人について」/服藤早苗「日本における家と家父長制成立の特色」/長島淳子「近世家族における女性の位置と役割」/粟屋利江「ヒンドゥー家族法の改正過程とジェンダー・イデオロギー」/李効再「韓国の家父長制と女性」/大沢真理「企業中心社会と家父長制」
  • 第5章 性の歴史と買売春   関口裕子「戦争と女性-日本古代の場合」/曽根ひろみ「近世売買春の構造-公娼制の周縁」/吉見義明「『従軍慰安婦』問題と日本近代」/山下英愛「朝鮮における公娼制度と日本」/廖秀真「日本植民地統治下の台湾における公娼制度と娼妓に関する諸現象」/テイーラナト・カジャナッソーン「タイにおける売買春の歴史」
  • 第6章 アメリカにおける中国女性史研究    -家庭領域の内外で 明・清期   スーザン・マン「清朝のある一家族の家庭生活における芸術,感情,思い出-常州・張家(1760-1860)の場合」/アン・ウォルトナー「曇陽子にみる女性としての人生,特に宗教における女性としての人生」/ドロシー・コー「中国・明末清初における纏足と文明化過程」/シャロット・ファース「明朝期の中国における治療医としての女性」

     報告者名と題目紹介だけで相当の字数を必要とする第1部各節の内容に踏み込むことはここではできない。この場では本書のもつ意義と限界についてまず結論的に述べ,次に多くの論者が提起する「ジェンダーの視点」に立って各論文を検討した場合に見えてくる展望と課題に限って論じてみたい。


 結論的には,良くも悪くも現在のアジアにおける「女性研究」の水準を示している,という一言に意義も限界もある。「女性史」と銘打ってはいるが,歴史研究の蓄積が薄い地域・領域では社会学や人類学等の研究者が報告を手掛けた。そのことが国際的なだけでなく学際的な広がりをもたらしている。研究の蓄積とともに過度の専門化=「タコツボ」化が懸念される諸分野に比して,この広がりが持つ意義は大きい。一定の研究蓄積の厚みが今回の「比較史的考察」を可能にしたことは確かであろうが,同時に,蓄積の薄さがこの広がりを可能にし,また必要ともした。一読すれば,いかにアジア女性について「情報が少ないか」(24頁)「非常に無知であった」か(370頁)を読者は思い知るだろう。その一方で,各自の専門分野に限ってみれば研究の粗さが気になるだろう。歴史学の方法で第2次世界大戦後の日本におけるアメリカ軍の女性政策を研究領域とする私には,研究方法も時代も地域も異なるほとんどの論文は「未知との遭遇」であったし,「日本政府は,GHQに対する政策的な配慮から戦前の女性参政権否認の論理を……いとも簡単に転換した」(150頁)とする箇所には,敗戦直後の女性運動家による婦選要求の活動再開と幣原内閣の参政権付与の閣議決定がGHQの指令に先んじていたことはほぼ通説化しているとの批判を容易に加えられる。
 個別領域でのそれぞれの研究を今後ますます進めていくべきことは言うまでもない。本書の限界を克服していくには当面それしかない。しかしその一方で,個々の研究の粗さには目をつぶり,広く見通す(=本書を通読する)ことで見えてくる「何か」をつかむことが「女性研究」に携わる者にもそうでない研究者にも今必要なのではないだろうか。ここでつかんだ各自の「何か」が,それぞれの研究領域に潜り込んでいくときの他領域との連関図となるのではないだろうか。私にとってのその「何か」が,今回は「ジェンダーの視点」となった。


 性差ではなくジェンダーを用いる最大の理由は,「男女の生物学的相違により直接生じる関係と特徴」と「社会が男女間に作り出すその他の差異と,男や女がその差異をどのように考えるかということ」は分離可能かつ分離が必要だという考えによる。言い換えれば「ジェンダーが社会的形成物であるという仮定を出発点としている」(577頁)。本書では,(1)ジェンダー概念を社会科学の機軸的概念と捉え,(2)ジェンダーを分析の機軸的変数に据えた研究を積極的に推し進めて,(3)他の機軸的変数とジェンダー変数との関係を構造的に解明していくことが重要な課題として提示されている(517頁)。
 しかしこれらはかなり困難な課題である。まず,女性史を「周辺史としか見ない歴史意識」(544頁)に代表される(1)の否定が根強く存在する。また「女性不在」に無自覚な既存の諸概念-例えば「会社主義」(358頁)-への批判が,「理論の欠陥を反省すべきはフェミニストである以前に,体系としてジェンダー視角を欠いてきた戦後日本の社会科学主流なのである」(363頁)といった形でなされているが,この声を受けとめる層は厚くない。
 次に,(2)を進めるにあたってはさまざまなジェンダー・バイアスの問題が指摘できる。「女性不在」も一つの性差における偏見,偏向といい得るが,注意すべきは「女性研究」にもジェンダー・バイアスはかかっているという点だ。それは「『女性史』に取り組んでいる私たち自身が,自ら意識できないほど深く『性』のイデオロギーに促われているかもしれない可能性」(365頁)としても指摘されている。これは本書のいたるところに見い出されるといっていい。「女性不在」の従来の概念を無自覚に適用した分析を指摘することについてはここでは省略する。たとえ女性をふんだんに存在させていても,女性の役割や束縛の状態を明白のもの・固定化したものとして取り上げている箇所も多く,また従来の概念の「女性不在」を自覚化した結果,「ジェンダーの視点から見た『民主政治』とは何か」(114頁)などといった類の問いがあふれていることだけを指摘しておきたい。決定的な問題は「男性不在」の概念を「女性研究」という名称はつくり出しかねない点にある。フェミニズムの視点ではなく,ジェンダーの視点を強調する必要性がここにある。ただし,女工研究における検番への注目(54頁),男女性別役割観を「男性を『内的領域』から排除」すると捉える認識(550頁)などは,ジェンダー・バイアスの罠から割合うまく抜け出している数少ない事例といえるだろう。
 最後に(3)であるが,他の変数としては少なくとも階級,民族が多くの箇所で指摘され(110頁,117頁等),各変数との関係がインド,中国,韓国,ベトナム,日本古代などの事例で検討されている。重視すべきは,「アジアにおける民族解放・階級解放と女性解放とはきわめて関係深く,しかも相互に自立的なものとしてとらえる必要がある」(117頁)との指摘だろう。「民族独立運動史のなかに女性解放史を解消する」(546頁),「中華人民共和国成立後,女性解放は達成された」(535頁)などに見られるように,女性は,革命が成功すれば解放される,独立が達成されれば解放されるとの言い回しのなかで「女性独自の要求」を出すために苦しんできた。「相互に自立的なものとしてとらえる必要」の指摘はそうした苦しみを経た認識に基づく。しかし今後ジェンダーの視点を他の何よりも優先させてしまえば,同じ苦しみを他に与えることもあり得る。ジェンダーは主要変数の一つでしかなく,少なくとも民族と階級,他にもあるかも知れない諸変数との深い関係において扱われることが必要である。
 以上を要約すれば,ジェンダー・バイアス批判は従来の「一般史」(500頁等)に対してのみ向けられる言葉ではなく「女性史」に対しても同様に向けられるものである。「女性史」は不可避的に女性に偏る。従って「女性史」は「ジェンダー(を含む)・ヒストリー」の構築を目指しつつ,まずは常に「男性史」を対極に見据えつつ,「一般史」のジェンダー・バイアスを意識しながらもそこから多くの成果を取り入れた上で,「女性史」自体が持つジェンダー・バイアスを自覚化し,克服しつつ,新たな「一般史」を目指すという方法的見通しを持つ必要があるのではないだろうか。そしてこの方法は,階級や民族といった他の分析軸にとっても入れ替え可能な方法かもしれない。研究蓄積の薄さが持つ見通しのよさをもった本書を通読することで,読者各自が,現代の世界を再認識する枠組をつくるヒントを得られるのではないだろうか。

明石書店,1997年6月,594頁,9500円+税
まつお・じゅんこ 立教大学大学院博士後期課程,法政大学大原社会問題研究所兼任研究員
『大原社会問題研究所雑誌』第473号(1998年4月)

更新日:2015年04月15日

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